こんにちは、jinbocchiです。
皆さんは「めんどくさい」って言葉を発したこと、ありますよね?
ちゃんとかくと「面倒くさい」なんですが、基本的には誰しもが経験しているような日常の言葉ですよね。
あー、めんどくさい。って。
これって、いったい何者なんでしょうか。
この面倒くさいの“面倒”ってところを考えてみると、「面倒見が良い」とか「面倒を見る」って使われます。
親が子どもの面倒を見る
弟の面倒見が良い
とかね。
となると、“小さい子や立場的に弱い側の人の面倒”というものを、親とか先輩とか、そういう人たちが見てあげているってことですね。
つまり、面倒というのは身の回りにあることであり、しかも結構とるに足らないことを指します。
ご飯の準備をしてあげたり、欲しいものを用意したり、要らぬものを排除したり。
泣いているのをあやしたり、困っているところに手を差し伸べたり。
そう言う時に、上のような言い方で使われますよね。
それらって、人間誰しもが抱える日常の物事であり、アナタも人生のあらゆるところで経験してきたことです。
そういう意味では、人生は面倒くさいことで囲まれているし、面倒なことをやることで生きているとも言えます。
朝起きて、朝食を作るのはめんどくさい。眠いもんね。
朝起きて、顔を洗うのはめんどくさい。冷たいもんね。
朝起きて、着替えるのはめんどくさい。別にいいじゃんね。
みんなも改めて思い返すと、身の回りにそういうめんどくさい、ってことがあるはず。
ワタシの個人的な思いで言えば、髭を剃るのはめっちゃめんどくさい。毎日毎日、刃物を肌に当てるのって、結構ストレスなんよね。めんどくさい。
けど、きっとわかると思う。
そうやって、めんどくさいってことをこやしながら人間は生きていくんだよね、と。
面倒だなぁと思うことを、自分でしっかりやらないといけない。
自分自身の面倒を見ないといけない。
正直なところ、そういう面倒なことはほっておいても死にはしないのです。
ワタシが髭剃りをさぼって生きたところで、人相が悪くなって、不潔感が増して、なんともむさ苦しいオッサンが出来上がる。けど、それだけ。
死にはしない。
ただ、そういう面倒を自分で見る力が無いと、やはり社会でやっていけない。そう思うのです。
そういう日常にあふれる面倒くさいことを、自分で面倒見てやっていく。これはいつまで経っても大切な、日々の学びだなぁと感じます。
子どもの頃、小さい頃は、そういう面倒を(かわりに)見てくれる存在がいた。その多くは親だったり、身近な親族だったりするでしょう。
けど、そこから卒業するぞって思わないと、いつまで経っても甘えん坊ってなっちゃいそうじゃない?
塾にいると、生徒たちがそうになっていかないとだなぁと思います。面倒見が良い先生ってことは、冷静に考えると、ややダメなのよね。
面倒見が良いけど、段々と子どもが自分の面倒を自分で見るようになる。そうならないと。
そんなことを考えながら、髭剃りしてきます。
めんどくさいなぁ。